試す人になろう 野中郁次郎氏

一橋大学名誉教授 野中郁次郎氏 今の時代に求められるリーダーとは

http://www.globis.jp/1917-3

最後に申しあげたいのですが、実は震災前に栃木にあるホンダの研究所を訪問し、いろいろと議論をしてきました。そこで研究所の50周年記念でしたか若手のプロジェクトメンバーがホンダ研究所のあり方なようなものをまとめたビデオを見て非常に感動しました。かつて本田宗一郎が通っていた小学校の石碑には、「試す人になろう」という言葉が刻まれているのです。ビデオでは「もう一度ホンダの原点とは何か、そして我々はなんのために存在するのかを見つめ直そう」ということで、「試す人になろう」という本田宗一郎のその言葉が語られていました。人生は見たり、聞いたり、試したりという3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”をほとんどしない。ありふれたことだが失敗と成功は裏腹になっている。みんな失敗を恐れるから成功のチャンスも少ないと。だから‘Be Someone Who Tries’となる。「やってみようじゃないか」ということです。徹底的に考えてもわからないことはあります。しかしだからこそ共通善に向かって一歩一歩無限に、実践を通じて真・善・美に近づく以外方法はないということです。経営にマジックはありません。しかしながら「共通善に向かって何をやりたいんだ」、そして「それを実現する手段は一体なんなんだ」と考えてみれば、結論はアクションになります。とにかくやってみる。それを無限に続けていく以外に方法はないのではないか、というのが彼らの結論でした。

Think different スティーブ・ジョブズ

http://ja.wikipedia.org/wiki/Think_different#.E3.82.B3.E3.83.B3.E3.82.BB.E3.83.97.E3.83.88.E3.80.81.E5.93.B2.E5.AD.A6.E3.80.81.E8.83.8C.E6.99.AF

大人になると、この世界とはこういうもので、自分の人生も、その中にある人生を生きることだ、と言い聞かされることになりがちだ。壁を叩くようなことはしすぎるな。良い家庭をもって、楽しみ、少しばかりの金を貯めよう。

そういうのは、とても制約された人生だ。たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは、自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。周りの状況は自分で変えられるし、自分が周りに影響を与えることもできるし、自分のものを自分で作ることも、他の人々にもそれを使ってもらうこともできるのだ。

人生だと思っていたことも、突いてみることができ、自分が何かを押し込むことで、反対側で何かが突き出たりするのだと悟り、人生は変えることができると理解すれば、自分で人生を造形していくことができる。それこそが、おそらく何よりも大切なことなのだ。それこそが、人生はそこにあり、自分はその中で生きるしかないという誤った考えを揺さぶって振り払い、人生を抱きしめ、変化させ、改善し、自分自身の痕跡を刻み込むということなのだ。

私はこれはとても大切なことだと思うし、どのようにそれを学んだかに関わらず、それを学んだ者は、このいろいろな意味で厄介なことがらを抱え込んだこの人生を変化させ、より良いものにしようと望むことになるのだと思っている。一度このことを学べば、それまでのままではいられないのだ。

人生の目的 五木寛之

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9#.E4.BA.94.E6.9C.A8.E5.AF.9B.E4.B9.8B.E3.81.AE.E8.A6.8B.E8.A7.A3

人生の目的は、『自分の人生の目的』をさがすことである。

自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの『生きる意味』を見出すことである。

変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である』といってもいい。私はそう思う。

そのためには、いき続けなくてはならない。いき続けていてこそ、目的も明らかになるのである。『われあり ゆえにわれ求む』というのが私の立場だ。

自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。

しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人々がつくった物語を『信じる』という道もある。

<悟り>という物語。<来世>という物語、<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる。

— 五木寛之『人生の目的』

グレートジャーニー 関野吉晴

http://www.youtube.com/watch?v=Av5_TqgR2uE

馬鹿げたことやってんだけど、馬鹿げたこと通して何か見えてくるものってあると思うんだよね。

自然と人間との関係がどうなっているんだろうか。これからどうあるべきか。

ningennoshiso

五万年前以来の旧石器時代後半になると、

その以前から姿を現した新人類が、大いに活躍する時代を迎えた。

新人類は、私たちの直接の祖先である。かれらの石器は次第に精巧さを加え、

また野獣の角や骨で投げ槍、矢じり、もり、釣り針などをつくった。

石や貝殻をつなぎ合わせた首飾りなどの装飾品も遺されている。

彼らは、死者を丁重に埋葬し、また生命の多産豊穣を祈り讃えて多くの母性神像を遺している。

洞穴内の秘所には、動物画を描いて、狩猟の豊かさを祈った。彼らはもはや単に受動的に生きているのではなく、

むしろ自然の世界の意味を問い、自分たちなりに、意味の世界を持つようになった。…p10

彼らにとって野獣の狩猟は、神聖な行為であった。

動物を殺すことは、その動物を、その魂の故郷に送り返してやることであった。

それを共同体で確認する方式が、儀式であり祭式である。

ここには、現実の現象を超えた、根源的な意味の世界が志向されている。

現象の世界は、根源の世界から生まれたとされるのであり、現象の世界は根源の世界から説明され、是認され、意味づけされるのである。

この根源の世界をさまざまに思い描くことを通じて、さまざまな神話が生まれ、また儀礼が発した。…p12

 http://profile.musabi.ac.jp/pages/2009069.html

グレートジャーニーでは旅を織物に例えて続けてきた。

縦糸がミニ・エクスペディションつまり移動で、横糸が「自然と一体となって暮らす人々の中に入っていく」などのな寄り道だ。

縦糸と横糸があって初めて布ができる。この旅で織られた布とは何か。自分自身のモノの見方とか考え方に刺激を与えてくれる生き方、考え方であり、それによる新たな気づきだ。

「我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこへ行くのか。」という問いへの答えは簡単には出てこない。しかし旅は多くのヒントを与えてくれたことは確かだ。

仏教の本質 哲学者「中村元」

http://www.youtube.com/watch?v=NWZtkxP3eGg

人間の体は王様の飾り立てた車のようにやがては朽ちてしまう
けれども人から人に伝えられる真の法はいつまでも輝く
人から人に真理が伝えられるわけでございましょう
それは永遠の価値を持っているという意味なんでしょう
本当の自己というのは どういうものか
誰でも 人間はどこかの場所で いつかの時点で 生まれてきたわけです
そして必ず両親があったわけですね
それから育ててくれる人があった
助けてくれる人があった
その助けてくれた人の数というのは無数でございます
人間だけじゃなくて山川草木まわりのものが何か関係を持っている
遠く考えますと宇宙の彼方から例えば太陽が光線を送ってくる
そうするとその太陽の恩恵も受けているわけです
宇宙にあるいかなるものも孤立したものではないという思想
宇宙とつながりがあるわけです
そのつながり方が めいめいみんな違うわけです
だから個々の自己は非常に微々たるものと考えるかも知れませんけど
実はその内には偉大なものを秘めているわけです
ですからその偉大なものを受けていることを自覚すれば
そこで自分の生きる道はどうかということが
おのずから明らかになって実現される
ということになるんじゃないかと思うんですが

近代の開始と共に宗教の権威は衰えまして国が力を持ってくる
国家形成において巧みであった民族が世界史のリーダーになったわけです
国が絶対的なものと思われましたけれども
今日になりますと国々を越えた一つの地球共同体というものをみんなが考えなきゃいけないところまできていると思うんです
何が起きても地球の上でどこで何が起きても
すぐそれが地球の上のあらゆる国々
さらにその国々の住民の生活にすぐ影響が及んでくるわけですね
以前には 支配者が非常に乱暴な野蛮な行為をしても また文明の回復ということが可能だったんです
つまりその力の及ばない範囲がありましたから そちらからまた優れた文明の伝統を取り入れまして生かせば良かった
ところがだんだん世界が一つになってきて 何か起きますと 今度は いっぺん破壊しれしまったらもうとりかえしがつかない この危険はあるわけです
世界が一つになる場合に 異質的なものに対する理解と寛容ということ これが絶対必要だと思います

仏教の教えというものは
この上に輝く日月のようなものである
太陽や月があらゆる人を照らすように
仏教の教える真理というものは
あらゆる人に明らかなものであり
あらゆる人を照らす というわけです
続けて釈尊はこういわれました
もしも自分が人々を導くのであるとか あるいは
この修行者の仲間が私を頼っているとか 思うならば
私が死ぬということは大変なことであろう
しかし私は自分がみんなを導くなんて思ったこともない
またみんなが自分を頼りにしているなどとも思わなかった
自分はただ人々のよるべき真理 真の生き方というものを明らかにしたそれだけなのだ
だからなにも自分が消えて亡くなったからといって嘆き悲しむな
およそこの世のもので いつまでも破れないで 存続し続けるものは何もない
いつかは破れ消えうせるものである その道理を私はお前たちに 今まで説いてきたではないか
ただ私はそこにある一貫した真理というもの それを説きあかしてきた
だからそれに頼れ
この変転 常ない世の中では まず自分に頼るべきである
自分に頼るとはどういうことであるか
自分はこの場合にどうすべきかということを
その場合 その場合に考えることでしょう
その場合 何を判断決定の基準にするのか
それは「人間としての道」「法」 インドの言葉で言うと「ダルマ」と呼ばれるものです
これを「法」と訳しますが
この人間の理法というもの これに頼ること
「自己に頼れ 法に頼れ」
これが釈尊の最後の教えでありました