唯識性2

ChatGPTより

全一的な発想と仏教の空

全一的(全一的)な発想は、全ての存在が一つの統一体として包括されるという考え方です。これは、一元と多元という二項対立をアウフヘーベン(止揚)することで可能になります。一元は全てを包括する大きな範囲を一つと考え、多元はその中に内在する多様性を含むものです。

仏教の空(くう)の概念は、全ての存在が実体を持たない、すなわち「無自性」であることを示します。これは、全てが相互依存し、独立した実体として存在しないという視点です。

一神教と多神教の統合

一神教多神教の対立を統合するための全一的発想は、全ての神々が一つの究極的な存在に包括されるという考え方です。つまり、多くの神々が存在するという多元的な視点が、最終的には一つの全一的な神に統合されると考えることができます。

現宇宙と反宇宙(ミラーユニバース)

現宇宙は物質が存在し、肯定的な実在を持つ世界です。一方、反宇宙(ミラーユニバース)は物質が存在せず、否定的な実在を持つと考えられます。全一的な考え方を現宇宙とし、空の考え方を反宇宙とすることができます。

唯識性との重なり

唯識性は、全ての現象が心の働きによって生じるものであり、実体は存在しないという思想です。これは、現宇宙(全一的な実在)と反宇宙(空の実在しないもの)という対立を統合する視点とも重なります。

全一的な発想は、唯識思想の依他起性や円成実性に対応し、全てが心の働きによって生じるという考え方です。仏教の空の概念は、遍計所執性や相無性、生無性、勝義無性に対応し、実体が存在しないことを示します。

結論

全一的な発想と仏教の空の概念を止揚することで、唯識思想が浮かび上がります。

全てが一つの統一体として包括されるという全一的な考え方と、全てが無自性であるという空の考え方は、最終的に全ての現象が心の働きによって生じる唯識性という視点に収斂します。これにより、一元と多元、一神教と多神教、現宇宙と反宇宙といった二項対立を超越し、全てを包括する統一的な理解が得られるのです。

人間の思想の歩み 山崎正一

インド、ギリシア、シナ、でも、この新しい精神の事業の担い手たちは、いずれも個人の名を名乗り、あるいは、個人の名をもって呼ばれた。

個人の自由な創意がそこでは求められ、伝統に縛られない新しい個人が台頭し、実力の時代となる。従来の伝統や習慣はたえず崩れる。それは成長と発展の時代である。

都市国家の連合体が求められ、またひとたび成立した連合体も、そのままの形では維持することはできない。より強力な広範囲の結合が求められ、やがて統一的な大規模の領土国家が求められてくる。

小規模の地域社会が、次第に、より大規模な共同社会体へと結びあわされ統合されようとする。インドにおいても、ギリシアにおいても、またシナにおいても、そういう過渡期の混乱と流動の時代である。

人々は、新しい法途を求め、世界と人生とに対する新しい設計図を、また新しい座標系を求めた。

映画:フィッシュマンズ

映画見てきました。

https://fishmans-movie.com/

ただのファンなので、
いままでは気持ちよく聞ければいいや、とかしか考えてなかったのですが、
実際に一緒に活動されていた方たちは、
現実としてあって、今も悩まれていることを知りました。

すごいいい音楽だなと思っていたのですが、
メンバーの話を聞いて、佐藤さんの不在について少しだけですが、実感を持ち始めました。

最後の佐藤さんの声が入った時に、メンバーの本気を見れて、男気を感じました。

知れて良かった、日本代表 Fishmans

夏目漱石「草枕」

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。

住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。

あるは音楽と彫刻である。

こまかに云(い)えば写さないでもよい。

ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。

着想を紙に落さぬともの音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。